東西本願寺に分かれた理由


 覚成寺は浄土真宗本願寺派(お西)です。そして、一般の会社の本社にあたる本山は、京都の七条堀川にある西本願寺です。ですが、堀川通りの一本東の烏丸通りには東本願寺(正式には真宗本廟)という、もう一つの本願寺があります。今回は「どうして分派したの?」「どちらが本家なの?」といった、普段寄せられる問いにお答えしたいと思います。

 じつは本願寺が京都に移る以前は、本願寺は「石山本願寺」といって大阪にありました(その跡地に築城されたのが大阪城です)。その前は「山科本願寺」といって京都山科の地にあったのですが、本願寺の勢力拡大を恐れた法華宗の人たちに追われて、本願寺の10代目の代表である証如上人のときに大阪に逃れていったのです。大阪に移った本願寺はやがて周辺に寺内町が発展するなど次第にその勢力を取り戻していきました。
 しかし、11代目の代表である顕如上人のとき再び危機が訪れます。天下統一をねらう織田信長が、恵まれた立地にある大阪の明け渡しを要求してきたのです。本願寺はこれを拒否し1570年「石山合戦」の火ぶたが切られました。(寺伝によると、覚成寺もこの石山合戦に加わり、織田信長に抗戦しています。)
全国の門徒さんや諸大名の支援を受けて抗戦した本願寺でしたが、1580年に和睦して、顕如は石山から退去して和歌山県へと移ります。ですがこのとき、信長との徹底抗戦を主張した顕如の長男・教如は、石山本願寺に籠城。数ヶ月の籠城ののちに降伏し、最終的には信長に大阪の地を明け渡したのでした。
 この2年後、「本能寺の変」で信長が亡くなったあと、本願寺を優遇して現在の西本願寺の土地を寄進したのが豊臣秀吉でした。京都に移った直後の1592年には顕如が亡くなり、長男である教如が12代法主の座を一度は継ぎます。ですが、石山合戦のとき信長との徹底抗戦を唱え顕如と対立したため、翌年には秀吉の命令により弟・准如に職を譲り、隠居させられました。ここで”第3の天下人”徳川家康の登場です。秀吉が優遇していた本願寺の勢力を危険視した家康は、隠居させられていた長男の教如に六条烏丸の土地を寄進し、本願寺勢力を二分したのです。そうして教如によって1602年に建立されたのが東本願寺で、教如は本願寺の12代法主として復職したのでした。
 
 こうして見ていきますと、東西本願寺に分かれたのは、本願寺のお家騒動と言うよりは、信長、秀吉、家康の、3人の権力者による勢力争いに巻き込まれて、その勢力を二分されたと言えるのではないかと思います。ですから、「どちらが本家か?」というと、「どちらも本願寺です」としか言えないのです。
 それよりも大切なのは、どちらの歴史が古いかとか、格がどうこうではなくて、私たち一人ひとりが今この瞬間をどう生きているか、なのではないでしょうか。


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