念仏
〜カンタンなことほど怪しいと思う〜

今回は京都の浄土真宗のお坊さん、羽田高秀さんのエッセイをご紹介させていただきます。(合掌)

僕が信仰している親鸞さんの教えは、易行(いぎょう)といわれてます。

難行(なんぎょう)にたいする易行です。
誤解を恐れず、非常に簡単に言うと 「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と称える(念仏する)と浄土に往生する。(実は「称えると」の「と」が問題なんだけど、まあ この場はそうしときましょう)


A.悟りを得るために、毎日何時間も座り続ける。5年間で700日間、夜中に30kmも歩く。
滝に打たれる。身体を鞭でしばく(まあ、趣味の人はいいとして)。


B.ところが、たった6文字を称えるだけで、救われる。
悟るのでなくって救われる。
それが他力の教えなんです。


ただ、人間は努力する性質を持っていて、さらに、いっしょうけんめい努力しないと、報酬は得てはいけないと思い込んでる。
そういうふうに刷り込みされてしまってるんですね。

だから、B.は信じられない。
信じられないものは実践しにくい。
無理やりやっても、疑いを抱きながらやるから、なおさら 「効果」は無い。


A.はやってると、やってるっていう実感があるから、苦しくっても
苦しさの報酬として得られる「期待」が出てくるから、疑いなくできる。
念仏の教えを「難中の難」と親鸞さんは言われました。
難中之難無過此(なんちゅうしなんむかし)(『正信偈』より)
難の中の難、これにすぎたるはなし。

それは実は人間のほとんど全ての営みに通用することなんですね。
難しいものは効果があると思ってしまう。
難しいものほど効果があると。
簡単なものは、そんな簡単なことで、例えば病気が治ったりしないだろうと、勝手に思い込んでしまう。

でも、案外、効果が高いのは非常にシンプルで簡単なものかもしれないです。合掌

 


※ 念仏と苦行はあくまで比較で使ったので、どちらが良いとかということではないです。。                           

浄土真宗本願寺派 光恩寺  羽田高秀


BACK