「祈り」について〜「祈らない宗教」浄土真宗〜

 「祈り」という言葉は、「い」(聖なるもの)、「のり」(告げる、言う)という二つの言葉からできていて、合わせて「聖なるものに対して言う言葉」ということになります。もう少し具体的に言いますと、「自分の願いや欲望をかなえて欲しいという気持ちで言う言葉」が、「祈り」という言葉の一般的な認識ではないでしょうか。

 実は、日本の仏教も、国家権力を維持するために利用されていた初期の仏教では、国家の安泰(権力者の安泰)を祈ることが、その役目となっていました。地位やお金にものを言わせて神仏に奉仕することができるものだけが救われていく教え、それが初期の日本仏教の姿だったのです。ですが、本来の仏教は「生・老・病・死」という人間の持つ根元的な悩みを解決していく教え、つまり、病や死といった苦しみをそのまま受け止め、その上でそれを乗り越えていく教えであると考えますと、権力の側に立ち、民衆の悩みにこたえようとしない国家仏教は、本当の仏教とは呼べないのではないでしょうか。本来の仏教の「救い」とは、悩みの解決を奇跡に頼るのではなく、悩みをありのままに受け入れることからはじまるものだったのです。
 
 ところで、浄土真宗は開祖・親鸞の頃から「祈らない宗教」とされてきました。それは、病気になったり死んでいかねばならない苦悩が転換されるのは、悩みを悩みでなくならせる、必ず仏にすると誓われた阿弥陀如来のはたらきによるものであったことを知らされますと、私の側から特別に祈ることなどまったく必要なかったことに気づかされるからです。
 
 ただし、「健康をお祈りします」や「旅の無事をお祈りします」のように、何か聖なるものに頼るという気持ちは一切なく、純粋な気持ちで心から言われている「祈り」もあります。浄土真宗ではそういう場合、「念じます」と言い換えてきました。「何もそこまで…」とお思いになるかもしれませんが、やはり「祈り」という言葉の持つ根元的な危うさ(自己の欲望を満たすためだけの自分勝手な祈りにおちいる可能性)がありますから、そのような気遣いをしてきたのだと思います。

 親鸞が念仏以外の一切の行為を雑行(ぞうぎょう)として退けられたのは、その場しのぎの救いを求めていたのではなく、人間の持つ根元的な悩みの解決を求めていたからにほかありません。そして、それは自分の力を頼みとしていてはとうてい解決し得ないことに気づかれ、そんな自分を見越して願いをかけられ、はたらき続けてくださっていた阿弥陀如来のお心を知った時、それまでの苦悩が次第に晴れていったのです。こうして考えてみますと、「念仏以外いらない」と、他の教えを排除するというよりむしろ「念仏だけでよかった」世界に出会っていかれた、と言う方が適切なのかもしれません。      合掌

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