正信偈


 「帰命無量寿如来・南無不可思議光」の二句からはじまる正信偈は、「誰でも、阿弥陀如来におまかせする気持ちをおこして念仏するだけで、必ず仏になれる」という、浄土真宗の教えがまとめられている親鸞聖人の主著『教行信証』の中にでてくる詩です。

 「仏になる」と聞くと、「亡くなる」ことを連想されるかもしれませんが、本来の意味は「悟りを開いた人」のことを仏(インドの言葉ではブッダ)といいます。つまり「仏になる」とは、人生の悩みや苦しみの根元を顕らかにして、それを克服して心安らかに生きられたお釈迦様のような人になることをいいます。お釈迦様は、「すべての人が同じように心安らかに生きられるように」と願われ、聞く人それぞれに合わせた悟りへの方法を語られました。それらが、後になってお弟子さん方によってまとめられ、お経となったのです。浄土真宗でこれにあたるのが、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』の浄土三部経で、自力の修行をしても悟れず、もがき苦しむ人をこそ救いたい、悟らせたいと願い、はたらき続ける阿弥陀如来のことが説かれています。

 ところで、正信偈の中盤から登場する、阿弥陀如来の教えを伝えた、インド・中国・日本の七人の高僧のほとんどは、阿弥陀如来の救いに出会うまでに、何らかの挫折を味わわれています。そして、親鸞聖人も、9歳から29歳までの20年間、悟りを求めて比叡山で厳しい修行を行われましたが、どれだけ努力を重ねても、自分の中に染みついている煩悩から離れることはできませんでした。

 私は、人間関係がうまくいかない時、どうにかしようとあれこれ考えたり行動したりします。でも、ふと気がつくと、自分のことは省みないで、相手のことばかりどうこうしようとしていることが多々あります。人間関係を善くするためにがんばっていたつもりが、いつのまにか、「自分はこんなにやっているのに(関係が)うまくいかないのは、あいつが悪いからだ」と、醜い心の自分になっているのです。

 「『帰命無量寿如来・南無不可思議光』=南無阿弥陀仏」というのは、「悟りへの努力は一切捨てて、阿弥陀如来におまかせします」という、親鸞聖人の告白です。すべての人が、自分の愚かさを認め、素直になれたら、世の中の争いごとはもっと減るのではないでしょうか。   


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